仏教関連の画像

・相緑奇縁(あいえんきえん)
「緑は異なもの味なもの」という言葉があるように、男女・夫婦・友人など、人と人との出会い・めぐりあわせとその関係はすべて言葉では説明できないような、不思議な因縁によることをいう。
仏教では、現象として現れているものはすべて因縁、すなわち因と縁によって成り立っていると説く。
したがって、人と人とのめぐり合わせもこの因縁によるものに他ならない、というところから生まれた言葉。

・以信得入(いしんとくにゅう)
信じる心があってこそ、仏教の教えの中に入ることができるということ。
仏教の「信」は、澄みきって清らかな心、敬って揺れのない心、疑いもなく了解すること、などを意味する

・雲兄水弟(うんぴんすいてい)
一処に止まることなく、各地の善知識を尋ね歩いて修行する禅の修行僧を雲水といい、この雲水たちが兄弟のごとくあい親しみ、互いに修行にはげむ様を表したもの。

・依草附木(えそうふぼく)
中国では、人が死んで次に何者かに生まれ変わるまでの中有の間は、精霊として木あるいは草葉の陰に寄りついていると考えられた。
これに喩えて、文字言語に拘泥して真の悟りに到達しえない、中途半端な修行者をいう。

・応機接物(おうきせえつもつ)
応接は相手に応じた指導を行うこと、機物はその指導の対象となる衆生や修行者をいう。
修行者の性格や能力に応じて適切な指導を行うことをいう。

・回生回死(かいしょうかいし)
輪廻転生の中で、何度も何度も生まれ変わり死に変わりすること。

・機関木人(きかんぼくじん)
機関はからくり、木人は木で作った人形のことで、あやつり人形を意味する。
木人機関とも表現される。
大乗仏教の百科事典ともいうべき大智度論には「菩薩は九遠よりこのかた、因縁和合して仮に名づけて人となし、実には人の法なきを知る。是の中にただ骨・血・皮・肉のみあり。例えば木人機関の動作して去るあり、来るあるが如し」とされている。

・九思一言(くしいちげん)
よく考え十分思慮をめぐらせた上で一言を発すること。
熟慮して行動せよということ。
撰時抄に、「よくよく思慮のあるべかりけるか。孔子は九思一言、周公旦は沐には三にぎり、食には三はかれけり」とされている。

・下救沈淪(げぐちんりん)
一切衆生が迷妄の世界に沈んでいるのを救い上げること。
「中論」「十二門論」「百論」という3つの論を拠り所とする三論宗の宗義を、誤った見解を破る「破邪」と、正しい教えを顕す「顕正」の2つに分け、前者を下救沈淪、後者を上弘大法すなわち正しい教えを広めることととらえたものである。

・互為主伴(ごいしゅばん)
互いに主となり、伴(客)となること。

・罪過弥天(ざいかみてん)
弥はあまねくいきわたるという意味で、罪や過失が空一面に広がるほど大きく甚だしいことを意味する。
「法演禅師語録」上に、「罪過弥天なりといえども新たに赦し、咸放つ」としている。
解脱すれば、過去に犯した天一杯に拡がるほどの罪も消えてしまうというのである。

・斉同不退(さいどうふたい)
退というのは、悟りの境地や一定程度に達した心境から後戻りすること。
不退は不退転であって、後戻りしないということ。
斉同は共に等しくという意であって、浄土に往生する者はみなともに二度と再び迷いの世界にもどることはないということ。
他の悟りは退転することもありうるが、極楽浄土に往生すれば、一人の例外もなく退転してこの世に戻るようなことはないという意である。

・持戒持律(じかいじりつ)
戒と律を堅持すること。
戒は仏教聖典が書かれているサンスクリット語ではシーラ、律はヴィナヤであって、サンスクリット語ではこの2つを合した戒律という熟語は存在しない。
もともとシーラは倫理道徳的規範を意味し、ヴィナヤは法律を意味して、別の概念であったからである。
戒に相当するシーラは自主的・精神的な規範であり、律に相当するヴィナヤは犯せば罰則に処せられる他律的・現実的な出家修行者のサンガの中の法律である。