鉄道線路の画像

日本鉄道最大の事故は、明治30年に新線が開通した近くの矢坂~野崎間の箒川鉄橋で起こった列車事故でしょう

同32年10月7日、上野発福島行き第375列車は、上り列車が暴風雨により遅延した影響を受けて、約50分遅れで宇都宮駅に到着、矢坂駅を16時40分頃発車しました。
この列車は、牽引機関車。回送機関車、貨車11輛と客車
7輛を連結した混合列車でした。
この暴風雨は、相模灘から関東南部に上陸して鹿島灘に抜けた台風でした。

箒川鉄橋319mを渡り始めた列車に、北西の突風が左側から吹きつけ、連結器が外れて貨車1輛と客車7輛が進行方向右側に傾き、暴風雨によって増水していた箒
川に転落。
機関車と残った貨車は、鉄橋を過ぎてからようやく停車したという。

機関手は野崎駅に向かい、報告を受けた駅長が電報を打つものの、台風のため混線しており、17時20分頃にようやく打電できたといいます。
一方、客車にいた車掌は、負傷を負ったが矢坂駅に戻って報告、矢坂駅から宇都宮駅を経由して日本鉄道株式会社に連絡された。

宇都宮駅長は、鉄道嘱託医神野病院、赤十字宇社栃木支部などに出勤を要請し、駅員と保線作業員を、20時発の救援列車で現地に向かわせました。
これより先、地元の開業医を現場に駆けつけて、応急手当を行っています。

会社では、技師長、作業員と順天堂病院に要請した佐藤院長ほか医師と看護婦を、23時に上野発の救援列車で向かわせています。

翌8日3時半頃、宇都宮駅に東京から救援列車が到着、順天堂病院医師団は、二手に分かれて、佐藤院長は負傷者が収容されている神野病院と宇都宮駅で手当てを行い、副院長の一段は現場に向かっています。
現場では、風雨と濁流で負傷者の救出は難航しましたが、消防組が鳶口などを使ってようやく引き上げ、応急手当ののち救援列車で宇都宮駅に送ったといいます。

この脱線転落事故は、死者20人、負傷者45人となっています。

9日の上野駅5時発の一番列車で社長の曾我は宇都宮に行き、神野病院と県立宇都宮病院に入院した負傷者を見舞い、午後現場を視察し、宇都宮駅最終の上り列車で帰京しています。

なお、事故の大きさに比べて鉄道の被害は小さく、枕木の交換が中心であったため、8日9時には開通し、野崎駅に抑止されていた375列車は、9時に福島駅に向けて発車しました。

また、転落した車輌は、砕いて貨車で野崎駅に運びました。
天候の回復と水流が治まったこともあり、9日早朝から始められ、10日夕刻に終了したといいます


16日、日本鉄道株式会社では会議が開かれて事故の状況が報告され、死亡者遺族に金500円を、負傷者には軽重により一人金300円以下を贈与することが決議されました。

地元民からは事故直後から慰霊碑を建立しようという声があり、一周忌に石塔婆が建立されました。
この碑は、現在も東北本線下り線の箒川橋梁を越えた左側に残されています。
また、昭和6年の33回忌にあたって、事故の負傷者の一人であった田代撰文による慰霊の石塔婆も、鉄橋を渡った上り線際に建立されています。

その一方で、死者の中に福島県選出の衆議院議員菅野の子息文次がいたことから、事故から一ヵ月後の第14帝国議会に、菅野代議士により質問書が提出されました。
質問内容は、暴風にかかわらず列車を走らせたことの責任と鉄橋構造の不備についての追及でした。
これに対し大臣の答弁書では、予見できない不可抗力による事故であったとされました。

この答弁に納得できない菅野代議士は、翌33年2月会社の責任を追及して東京地方裁判所に3万円の慰謝料を請求する訴訟を行いました。
東京地方裁判所は会社側の過失を認めましたが、会社は東京控訴院に控訴して逆転勝訴となったため、原告は大審院に上告し、同39年2月原告の請求が棄却されました。
実に6年にわたる裁判となり、その後示談となりましたが、同様の訴訟が他の遺族からも起こされて会社は対応に追われました。